愛を差し出すことは、私自身が愛を受け取ることができる唯一の方法なのです。:ジェラルド・G・ジャンポルスキー著『愛とは、怖れを手ばなすこと』より

私はやすらぎと、愛と、ゆるしを経験したいと望んでいますから、それだけが、私が差し出せる贈りものです。攻撃ではなく、ゆるしと愛を差し出すのは、私から相手への恵みではありません。逆に、愛を差し出すことは、私自身が愛を受け取ることができる唯一の方法なのです。

以上、ジェラルド・G・ジャンポルスキー (著), 本田 健 (翻訳)『愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)』P.64-65より引用させていただきました。

「愛を差し出すことは、私自身が愛を受け取ることができる唯一の方法なのです。」というのは、そうかもしれないですね。

それを実行していない私は、なかなか愛を受け取ることができていません。(^-^;

面白いもので、ひとは愛や、やすらぎや、ゆるしを得たいと思い、文字通り他人からそれらを与えて貰おうと思うからこそ、逆にそれらを得られないのですね。

得たいと思うなら、与えることなんですね。

わたしには充分、愛とやすらぎとゆるしを、他人に与える価値があるんですね。

心はいつも「満たされない」状態にあります。貪欲で、さらに多くのものを求めているのです。:エックハルト・トール著『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』より

心はいつも「満たされない」状態にあります。貪欲で、さらに多くのものを求めているのです。思考を、「本当の自分」と同一視していると、なんにでもすぐに飽きがきて、決して足ることを知りません。退屈とは、思考がさらに多くの刺激を求めていること、もっと多くの「餌」を求めていること、そしてその飢えが満たされていない心理状態を意味しているのです。

以上、エックハルト トール (著), Eckhart Tolle (原著), あさり みちこ (翻訳) 『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』P.44より引用させていただきました。

そういう時には、次の方法を試すのがいいでしょうとのこと。

退屈と欲求不満の状態にとどまり、それが「どういうふうに感じられるか」を観察してみるのです。

意識を感覚に注ぐと、感覚の周囲にいくらかの「空間」と「静止状態」を感じはじめる。
その感覚に反比例して退屈という感覚は弱まっていく。

退屈という感覚でさえ、「自分が誰であり」、「自分が誰でないのか」を教えてくれる「道標」に利用が可能。

……だそうだが、ものすごく飽きやすい自分としては、役に立ちそうな方法だ。

思考を本当の自分だと思っているからこそ、すべてに飽きが来る……らしい。
その退屈さをたっぷりと味わえば、感覚として意識すればそこに今までとは別の何かが見えてくるかもしれない。

退屈とは単なる思考の心理状態……たしかにそうだ。

【最重要】世界の法則と愛の法則:ジェラルド・G・ジャンポルスキー著『愛とは、怖れを手ばなすこと』より

世界の法則は「欠乏」という概念に基づいていて、私たちが満たされることはありえない、と考えます。

(中略)

あなた自身が愛そのものであり、したがって、人に愛を与えれば、自分が何者であるのかを自分に教えることになる――これが愛の法則です。

以上、ジェラルド・G・ジャンポルスキー (著), 本田 健 (翻訳)『愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)』P.63、64より引用させていただきました。

まず土台にあるのが、愛の法則では、他者に愛を与えれば、自分が豊かになる、何かを与えれば同時に自分がそれを受け取ることになるということ。

愛の法則の土台はあふれるほどの豊かさ。

一方、世界の法則は、与えることは失うこと。何かを差し出せば、自分のもとにはなにも残らず損をする。

自分の外側に愛とやすらぎを求めても自分の中はつねに空っぽのまま。
私たちはつねに何かを探し求める。そして空っぽの自分を満たそうとする。
想像上の不足を補おうとする。

自分の望みを他人に満たしてもらおうと考え、相手がその期待にこたえてくれないと苦悩する。その苦悩は、焦燥感、失望、怒り、抑うつ状態、病気などの形となって表れる。

その結果、私たちは裏切られたように感じたり、可能性を狭められた、拒絶されている、あるいは攻撃されている、と感じたりする。

唯一の解決策は

何の見返りも求めず、惜しみなく誰かを愛すること

すると、その愛が同時に、私たち自身にも与えられる

……とのことだが、最大の難点はこの法則ってほんとうにそうなのか?だ。
普通に考えると到底あり得ない話である。
でも、心の深いところでは、これこそが真理であるような気もする。

この真理はかなり前から知っていた、でも自分は実行してこなかった。
何故かというと、まさに!損をすると思っていたからだ。
惜しみなく与えることは、損だと思っていた。

心の奥深くでは、与えることが受け取ることであると信じつつも、実際にはただ与えることは損だと思っていたし、はやく結果がみたかった。

なので、無条件の愛を一度も実際には実行したことがなかった……。

本当にそうなのか確信がなく損をすることをまさに”怖れて”いたのだ。

自分にとっての解決策は、信じて実際にそれをやってみること、だろうと思う。

自分の考えを一から十まで信じるのを止めたとき、あなたは思考の檻の外へと、一歩あゆみ出ることができます。:エックハルト・トール著『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』より

自分の考えを一から十まで信じるのを止めたとき、あなたは思考の檻の外へと、一歩あゆみ出ることができます。そして、「考えている人」は「本当の自分」とは別人だということが、手に取るようにわかるでしょう。

以上、エックハルト トール (著), Eckhart Tolle (原著), あさり みちこ (翻訳) 『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』P.44より引用させていただきました。

自分の考えを信じないで、何を他の事を信じるんだ!?って感じですが、自分で自分を騙すというのはよくあることです。自分で自分に嘘をつくというのはよくあることです。

まあ、ここで言ってるのはそういうことではないのかもしれませんが……おそらく思考の世界は幻想で夢のようなものだと言いたいのだと思います。

夢を信じることをやめたとき、思考の檻の外へ一歩踏み出すことになるのでしょう。

他者に対し、見返りを期待せず無条件に愛を与えるとき、私たちの中の愛は、豊かさを増しながら外に向かって大きく流れ出し、やがて一つになります。:ジェラルド・G・ジャンポルスキー著『愛とは、怖れを手ばなすこと』より

他者に対し、見返りを期待せず無条件に愛を与えるとき、私たちの中の愛は、豊かさを増しながら外に向かって大きく流れ出し、やがて一つになります。

以上、ジェラルド・G・ジャンポルスキー (著), 本田 健 (翻訳)『愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)』P.62より引用させていただきました。

私たちが無条件の愛の波動になる時には、大いなるすべての波動と同じになるので、結果すべてはひとつとなる、その大いなるすべてから自分を通して愛が流れるようになると、決してそれは尽きることがないんでしょうね。

スピリチュアルな覚醒とは、「思考の夢」から目覚めることです。:エックハルト・トール著『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』より

スピリチュアルな覚醒とは、「思考の夢」から目覚めることです。

以上、エックハルト トール (著), Eckhart Tolle (原著), あさり みちこ (翻訳) 『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』P.43より引用させていただきました。

私たちが信じている根本的な「幻想」は、思考と「本当の自分」を同一視してしまうこと。

そうですね、私たちの普通の感覚で言えば、思考している主体が自分です。
考えているからこそ、自分はこの世に存在しています。
思考が停止してしまえば、それは死と同じことです。

そう考えています。

しかし、それがもし幻想なら、私たちは思考の夢の中で生きていると言えるでしょう。

「与えることは受け取ること」――これは愛の法則です。この法則のもとでは、他者に愛を与えれば、自分が豊かになります。:ジェラルド・G・ジャンポルスキー著『愛とは、怖れを手ばなすこと』より

「与えることは受け取ること」――これは愛の法則です。この法則のもとでは、他者に愛を与えれば、自分が豊かになります。何かを与えれば、同時に自分がそれを受け取ることになるのです。

以上、ジェラルド・G・ジャンポルスキー (著), 本田 健 (翻訳)『愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)』P.62より引用させていただきました。

ではなぜ自分は実践しないのだろう?

おそらく表面では分かっていても、信じていないからだ。
与えることが受け取ることである保障を持っていない。
何かを与えることは同時に自分がそれを受け取ることだという確信が持てていない。

なぜ確信が持てないのだろう?

それは、その愛の法則を使わなくても、富や権力を得てる人が多くいるからだ。
この世の富や権力は愛とは無関係だ。

愛がなくても富や権力を得ることは可能だ。

逆に愛を持っているから富と権力に恵まれるということもない。
愛と富と権力は無関係。

富と権力を与えることが、受け取ることになるとは、考えにくい。

そう……偉い人が言っているからそうに違いないと思っているだけ。
富や権力をその結果得るかもしれないので、与えることをやってみたいと思っているだけだ。

富や権力が欲しいから与えようとしているだけなのだ。

ポイントは愛を与えると自分が豊かになると言うことだ。
豊かとは、富や権力とイコールではない。

バシャールは「豊かさとは、『動ける能力』です。」と言っている。

豊かさとは自由ではないか?

ドグマとは、集合的な観念の牢獄です。そして、とても奇妙なことに、人間は自らの牢獄を愛しているのです。:エックハルト・トール著『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』より

ドグマとは、集合的な観念の牢獄です。そして、とても奇妙なことに、人間は自らの牢獄を愛しているのです。なぜでしょうか?その理由は、ドグマは人間に一種の安心感と、「わたしは知っている」という偽りの感覚を与えるからです。

以上、エックハルト トール (著), Eckhart Tolle (原著), あさり みちこ (翻訳) 『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』P.41より引用させていただきました。

みんなが信じていることはきっと真実であろうと思うのが人間です。
ほとんどの人は、その真実で満足してしまって、そこで探求をやめてしまいます。

その方が楽だし、実生活に利益をもたらさないからです。

しかもより深く知ろうとしなければ、偽りの情報でも、満足に値します。

私たちが経験することは、外の世界に投影された自分の心の状態である。心が健康で愛とやすらぎに満ちていれば、それが外に投影され、自分が体験することになる。:『愛とは、怖れを手ばなすこと』より

私たちが経験することは、外の世界に投影された自分の心の状態である。心が健康で愛とやすらぎに満ちていれば、それが外に投影され、自分が体験することになる。

以上、ジェラルド・G・ジャンポルスキー (著), 本田 健 (翻訳)『愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)』P.56より引用させていただきました。

これって凄いですよね。

ただ、これって文字通りそうなのか、それともたとえなのか、疑問に思うときがあります。

この世界すべてを自分の意識が創り出しているとしたら、文字通りに受け取れますが、そうでないときは、すべては中立なので、取り様によって世界が変わると象徴的に取ることもできます。

いらいらする、ゆううつだ、怒りを感じる、体調が悪い、などの状態になったときは、誤った目標を選んでしまった結果、怖れに反応していると考えてまちがいないでしょう。:ジェラルド・G・ジャンポルスキー著『愛とは、怖れを手ばなすこと』より

いらいらする、ゆううつだ、怒りを感じる、体調が悪い、などの状態になったときは、誤った目標を選んでしまった結果、怖れに反応していると考えてまちがいないでしょう。喜びを体験していないときは、心のやすらぎを唯一の目標にするのを忘れ、与えることよりも得ることに関心が向いてしまったときです。

以上、ジェラルド・G・ジャンポルスキー (著), 本田 健 (翻訳)『愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)』P.54より引用させていただきました。

人間の本質は無条件の愛であると仮定した場合。

人は決して得ることでは満足できません。
人は与えることではじめて本当の満足を得るはずです。
論理的に考えるとそうなります。

この過程は、人間の欲望には限りがない事実の説明になります。

人間の本質は無条件の愛なので、ただただ与えることだけが、本当の喜びです。
何かを得ること、何かを手に入れることでは、絶対満足できないのです。

もっと得ることで幸せになるのではなく、もっと与えることで人は幸せになるのです。